この社会の中では赦しをせずには
生きられないんじゃないかと思える。
どれだけでも聖霊に語りかける必要のある
不安や苦痛や滑稽な出来事がないですか?
だから、赦しは機械的でも大丈夫。
そうして
赦しを経験してくると、分かってくることは、
赦しによって、痛みが感じなく、
鈍感になったり、痛みをコントロールして
軽減させているわけではないということ。
痛みや苦しみはある。
ただ、苦しむ人は、もうそこには居なくなる。
長らく、自分だと思っていた者が、
そうではないと、目線がズレてくる。
そこにスペースが出来る。
だから、
苦痛から逃げ出したいとか
思わなくなってくるし、
「どうして自分はこんな目に会うんだ」
というような葛藤も、そう言えば無くなる。
このような事が、
いわゆる「軽くなった」という事だと思う。
癒され、軽くなると、何かを求めて探す事も
必要を感じない。
求めていないけれど、突き動かされる指針は
見せてもらえる。
だから、聖霊と共に赦しをする。