今の認識だけ・奇跡のコース

今、目の前で、目で見た事は、本当に信用してよいものなのか? 同じく聞いたこと、体験して感じたことなどは、信頼に値するものなのだろうか?

普段、肉体の五感、感覚機能を通じて感じ取ったものの受け取りを、どのように処理したら良いのだろう。
もし、肉体がなかったら、目の前で起こっているこの事は、見えていないし、聞こえないし、触れる事も出来ないのだから、全く違う事を感じ取るのではないのだろうか。その時、心はどう感じ取るのだろう。
普段の身体を通しての情報は、心がダイレクトに受け取るものと、かなり違うのではないだろうか。
知覚するという意味においては、身体があるのか無いのかで、全く違ってくるはずだ。
身体がない場合、生きているとか、死んでいるという判断は、そもそも必要ではなくなる。それは、ただ肉体がないという事。
身体の有無がそのまま、時間感覚の有無になるのかどうかは、肉体が無くなってから感じてみないことには分からない。肉体が無い場合は、有った場合とは、明らかに時間の感覚は違う事は分かるけれど、どう違うのかは、肉体がない場合に分かるしかない。たまに、ゾーンに入っている時の時間感覚や、いつもの瞑想時の感覚は、きっと、それに近いのだろう。
時間がそうであれば空間認識も、まったく同じとは言えないにしても、同じような事が言えるのだと思う。そして、おそらくこの時間も空間も、記憶の中だけの物なのだと思う。
普段、肉体も感じながら思考している自分自身を、じっと観察している不動で永遠で時間とは無縁と思われる、この意識の感覚は、肉体が無い場合、どのような感覚になるのだろう。
ひょっとしたら身体も記憶の中だけに限定された物なのかもしれない。言葉や文字は、記憶の中だけの物だと分かりやすい。しかし、両親や家族、これまでに出会った人達が、記憶の中だけの物だという事は、言葉や文字ほどピンとこないかもしれない。ましてや自分の身体が記憶の中だけの物であるのかというのは、ちょっと把握し難い気はする。
それならば、記憶の中だけの物以外には何があるのか?

記憶を外したら、そこは、今の認識だけが残るのか?

過去や未来も全部記憶の世界なのか。記憶以外となると、やはりそこには、今の認識しか残らないのだろうか。タイムマシーンで行くことが可能と言われている未来は記憶とは異なるのか。
今の認識の前に、記憶というのは、どれだけの世界なのだろうか。これは、個人的な物だけではないような気がしている。よく言うアカシックレコードも、この記憶の一部なのか。この虚空蔵はどれだけ膨大な領域なのか。一人一宇宙という表現の宇宙はこの世界とどれだけ重なるのか。アートマンと呼ばれている哲学的に自我とか霊魂を意味し、意識の根源である領域も、この世界と同等なのか。
仏教などで言われる空という概念は、このアカシックレコードと同等なのか、それともアカシックレコードを包括している概念なのか、さらに空は記憶を包括しているのだろうかという微妙な感覚の疑問はあるにせよ、この五感を含む記憶の一部が、今の認識を干渉し、なんらかの形で今の認識の完全性を阻んでいる事は間違いないと思う。今の認識の完全性というものに、大きな意味での記憶が干渉することなく含まれないとしたら、そこに立ち現れるものは、完全である神以外にないことは確実か。そしてその神を眼前に拝むとき、同時に、そこには本当の自分の姿があるのか全てが無いのか、そのあるのかないのか分からない姿は神の子といえるのか。
または、空そのものも、記憶に含まれるのだろうか。記憶、空、アカシックレコードの範囲、抽象度合いに関しては、ブラフマンと言われるヒンドゥー教やインド哲学における宇宙の根本原理とどう重なるのかの感覚的な実感は、仏典やそれに類するものを調べる事により、理数学的に把握できる実感とは次元が異なっている。しかし、これが感覚的に腑に落ちる瞬間というのは、生きているうちのどこかで体験があるのかもしれないし不要なのかもしれない。ただ、記憶の中には、太古の分離の無い天国の記憶というものがある。この記憶も、最終的には不要になるけれど、その最終段階までの間は、大切な旗標ともなる。
その旗標に導かれ、現在、時間の感覚は、数年前と違って、緩やかで静けさがあるように感じてきたし、他人という隔たりのような距離感も数年前とは違う感覚になっているように思える。なんとなくしか分からないのは、徐々に変化してきたからなのかもしれないけれど、実際に比べることが可能なら、かなりハッキリした違いに気づけるのかもしれない。
このような感覚的な部分は、言葉の表現は、難しいというか、不可能だと思うので、「あっ」というような感じでしか言えない。
これまでにも、「あっ」という瞬間が、何回かあった。そのひとつは、今まで50年以上生きてきた中で、進学とか就職とか、結婚とか、離婚とか、引っ越しとか、自分で様々な事を選択してきて、今日の状況があると思ってきたのだけれど、それがすでに出来上がっているシナリオを見てきただけで、そこに選択の余地が無かったのではないのか?という疑問があった件に関しての事なのだが、ある時、「あっ」という瞬間があり、レストランで、パンにするのか、ご飯にするのかでさえ、選択していなかった、選択の自由はなかったと、腑に落ちた瞬間があった。瞬間的に、「なにひとつ選択してなかったんだ」と腑に落ちる事だった。この時も、やはり「あっ」という感じだった。選択していないということで、どれほど安堵できたことか。しかし、次の「あっ」という事態では、その選択するソースは適宜切り替えられるというマルチバース的な無限の感覚。この感覚にも、どれだけでも救われた。なにも選択していないけど、宇宙やシナリオを無尽蔵に選択できるなら、選択不能だけど、全てを選択しているという太い感覚に落ち着く。
今の認識を阻む記憶の影響が、次の瞬間、今の認識への記憶の干渉が無くなったり、少なくなるという事は、いつでも起こりえると思う。肉体や肉体に備わった五感の情報も、記憶と呼んでしまうならば、今の認識以外は、すべて記憶で、それ以外は未知の領域(神・愛・完全・永遠)とすると、記憶という宇宙には神の存在は無いのだろうか?数学チックにはなさそうだけど神の顔をしてないものの現れとしては、全てが神ということも言える。
すると、記憶、五感が、今の認識を邪魔しないと、今の認識が拡大するというわけではなく、今の認識に邪魔は何もなくなる。すると認識が拡大する瞬間が起こる。どの瞬間にも厳然と起こる。この今の認識の中で、僕もあなたも「あっ」という途轍もない表現不可能な時を、時を超えて、分かち合えるんだということ。未来にそうした楽しみがあるとかではなく、今、それがあるのだということ。
「私は何も分かりません」という祈りは、そうした意味で、自我的、肉体的、時空的なものすべてを、差し出す、今、この瞬間の認識への超パワフルな祈りとなるだろう。聖霊は、どんな記憶であれ、目覚めの為にそれを利用して僕らの赦しを先導する。
未来への希望を抱き、夢を実現する未来志向型でも、過去の経験を今に活かすでも、今、訂正を受け入れ、分離の無い全消滅への導きを受け入れるでも、どのような入り方でも全ての暗闇も光。
「私は何も分かりません。何であれ、あなたが私に望んでいる奇跡を私が今日、行えるよう助けてください。」

私と全宇宙が消えてなくなる。

そうして、結局、五感で感じていること全ても神の現れと化す。

さらに、今、ここで創造できることが、無尽蔵にたち現れ、その全てに関わっている自由がここにある。

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